RAMEN WONK KYUSHU
Ramen Writer _ Toshiyuki Kamimura
©RAMEN WONK KYUSU

RAMEN CULTURE

九州豚骨ラーメン文化考

Writer
Toshiyuki Kamimura

《其の四》真っ平らな“平網”を操る職人の美学に迫る

こうも毎日豚骨ラーメンを食べ続けていると、全身の毛穴から豚骨成分や油が吹き出しパソコンを打つ手は滑るし、風呂に浸かりながら「いいダシが出ているんじゃ」と豚“様”の気分になる時がある。そして、自室のクローゼットを開けるといつも漂う豚骨フレーバー。これはラーメンライターとしての宿命、何よりとても誇らしいことであるのだが、この20年“身を豚にして”九州のラーメンを追ってきた私の中で、特に伝えておかなければと使命感を覚える文化がある。

「南京ラーメン黒門」@北九州市のラーメン(後ほど詳しく紹介)

それは、豚骨ラーメンを作る古の道具。中でも、麺上げに使われる“平網”についてである。現在の麺上げ網の主流となっているテボ型でなく、緩やかなカーブを描くものでもなく、見事に“真っ平ら”な網。見かけたことはあるだろうか。

深みのあるテボ型は1玉ずつ入れて茹でるため、麺の硬さの要望にも応えやすい。一方、平網はより対流のおこる大釜で麺を泳がせてすくう道具。麺1本1本にしっかり熱が入るが、扱うには熟練の技を要する。

緩やかなカーブの網はスープを張る際の濾し網として使う店も多い

真っ平らな平網を現在も使っているラーメン店は私の知る限りでは九州でもわずか20店余り。「南京ラーメン黒門」(北九州)、「来来」、「純とんこつ無双」(いずれも飯塚)、「丸星」(久留米)、「丸幸」(基山)、「松福」(鹿島)、三福(広川)、「福龍軒」、「光華園」(いずれも大牟田。なお光華園は地元民からは愛を込めて“便所ラーメン”と呼ばれる超有名店)などなど。創業半世紀を超える店も含め、すべてが九州北部を代表する名店中の名店だ。そして、網自体を手作りしている金網職人もほとんど残っていない。製作者も、扱える者も“絶滅危惧種”なのである。

佐賀ラーメンの雄「いちげん」の内田健市店主。修業先である「もとむら」から平網技術を継承した

「南京ラーメン 黒門」の川内久門店主。平網は網の目の大きさ、グリップにも個性が出る。打ち付けて使うものゆえ、一般的な網よりも消耗が早い

約70年の歴史がある「三福」4代目の田島瞳さん。「父も母も同じだったから」と、ひょうひょうと平網を使いこなす

豚骨ラーメン店を取材する際、使う部位や煮込み方はもちろん、チャーシューを切り置きしないなどのさりげない気配り、道具でいえば、羽釜や骨かき棒、未だ燃料が灯油のボイラーを厨房に据えているなど、考察するポイントはたくさんある。中でもこの“平網”に出くわした時、私は……むちゃくちゃ萌える!!

縁まで平らなため、泳ぐ麺をすくう技術を要する

なぜにこうも惹きつけられるのかというと、平網はその職人の魂そのものを表したような、とても高尚な道具であるから。

「大釜で麺を泳がせたい」

平網を扱うラーメン職人の狙いは、シンプルなこの一点だ。しかし食べ手目線では、それに至る職人の所作のすべてが美しく映る。
愛でるように両手で麺をフワリとほぐし釜の木蓋の上に置く。
沸騰温度を探りながら最良の頃合いでストンと湯に麺を落とす。
見事な手首の“返し”で、呼び込むように麺をすくう(何玉も泳ぐ中で1玉量をすくう技術もすばらしい)。

そして、湯切りの“音”も醍醐味なのだ。網が平らで引っ掛かりがないため、鍋の縁に打ちつけて切る必要がある。厨房から聞こえるシャッシャ! カンカン!という古の豚骨店の音風景を楽しみにしている往年のファンも多い。時折り、ガンガン! と必要以上に打ち鳴らす音が響く際は、マナーの悪い客などに注意を促す大将の無言のサイン。平網使いは、そのような愛すべき職人たちなのだ。

持ち方、柄のどの部分を握るかも職人それぞれだ

私のように平網の魅力にどっぷりハマると、ラーメン職人それぞれが使いやすさを追求した、網と柄の角度や持つ場所、握り方、グリップの削り、テーピングの巻き方まで見るようになる。いわば、野球選手のバットのように繊細な感覚のプロの道具。使いこなすまで皆、麺でなく濡れタオルをのせて鍛錬を重ね…。

と、今回もどんどんマニアックな方向に向かっているが、好きすぎるテーマゆえこのままいかせてもらおう。まだまだ序盤。これからは「平網の歴史」「ただ一人となった平網を手作りする金網職人」そして、「平網を巧みに操るラーメン店の紹介」へと続いていく。

大牟田ラーメンの代表格「福龍軒」の2代目、池田健さんの平網使いも見事

国道3号系ラーメン「丸星」。平網のグリップの感じがたまらなくいい!

平網の歴史を紐解く

伝説的職人「大砲ラーメン」初代の香月昇氏。創業は1953(昭和28)年。鉛筆を持つように平網を握り巧みに操っていた。写真からも職人としてのオーラ、男の色気を感じる

第一に、豚骨ラーメン史における平網もまた、聖地・久留米に端を発しているいることは間違いない。掘り返すとラーメン屋台が原点。写真でも分かるように昭和28(1953)年創業の「大砲ラーメン」、かつてJR久留米駅に軒を連ねていた屋台の一角「来福軒」の初代も平網を使用。さらにさかのぼると、白濁スープの生みの親、久留米「三九」(鹿児島以外の九州各地のラーメンの祖)は、佐賀にも支店を出しているが、その流れの「一休軒」、続いて現存する「もとむら」、その弟子「いちげん」へと脈々と平網文化は受け継がれている。そして国道3号系の代表格「丸星」「丸幸」も平網。久留米から伝わった北九州においてもまたしかり。同じように屋台源流の店(「黒木」からの「南京ラーメン 黒門」もそうである)には平網が継承されている。

この時代に当たり前だった羽釜は平らな網の方が無駄なく麺をすくえるということも平網が使われていた理由。ここで付け加えておきたいのが、久留米、佐賀、北九州に比べると福岡市内には平網文化はあまり残っていないということだ。“麺を泳がせる”古の豚骨店は現存しているが、福岡市は平よりも緩やかなカーブを描いた網を使っているところが多い。これは、福岡ならではの長浜を起点とする屋台のスタイル、細麺主流へとなっていったことが関係していると私は考えている。

古の長浜ラーメンはざる網が主流

長浜ラーメンを作りづづけて40年になる「ぶんりゅう」の大将、渡辺友隆さん。柄が長く、緩やかなカーブを描くこの網が長浜ラーメンでは主流であった

鮮魚市場と隣り合い労働者を短い時間で満腹に、と細麺、替え玉を編み出した“ガンソ”(=「元祖長浜屋」。屋台から始まり路面店へ)は、福岡の文化的存在である。麺は細くなるほど平網ではすくいにくい。さらに爆発的に売れた長浜のラーメン店は、替え玉までこなすためにはある程度の効率性が必要である。昭和20年後半から30年代にかけての背景からも平網を使う選択肢もあったかもしれないが、行き着いた長浜のスタイルは麺茹で釜を低い場所に置き、柄が長く緩やかなカーブの網を使って上げるというもの。手首のスナップで力を柄に伝え、クルリ、クルリと麺を回転させて湯切りをする。現に最盛期の長浜屋台群では、地面に置いたブロックの上(または直置き)にバーナーと茹で釜をのせた屋台が並び、作り手の好みでカーブを施したざる網で麺上げをしていた。柄が長い方が腰を深くかがまなくていいし、噴き上がる湯で火傷する危険も少ない。また、茹で釜を屋台横や後方に据えることで、限られた厨房スペースを広く使えるメリットもあった。

古の長浜ラーメンの湯切りは、ざる網でクルリ、クルリと踊らせるスタイル。 職人により握る場所の違いも分かるだろう(写真は「塩原いってつ」)

替え玉需要が増え、硬さの要望が再分化するにつれ、テボが必需品に

一方、中太麺文化で、元来替え玉もなかった久留米、北九州では、麺茹で釜を屋台のカウンターに“はめ込む”しつらえの屋台が主流で、張る湯の深さで(手が浸からないよう)微妙な長さの違いはあったものの、柄の短い平網を使う職人が多かった。麺茹で釜が足元にあるか、腰の高さにあるかで網の形状にも違いは出るが、ここまでは“麺を泳がせること”は共通している。

この後、出てきたのが現在よく見るテボ型の麺上げ網である。こう言うと革新的な道具であったように思われるかもしれないが、実はラーメンの網としてよりもはるか以前から“うどんテボ”として存在していて(かつては竹製のテボ)、それが中華麺の麺上げにも取り入れられたものだ。

複数玉を大釜で泳がせ取り分けるのではなく、正確に1玉ずつを茹でられる。湯切りに関しても平網より扱いやすい。加えて、バリカタ、カタなど麺の硬さの要望が再分化していくにつれ、テボ網は便利な道具として広まっていった。

平網を手作りする唯一の職人が佐賀・鹿島にいる

先ほど、ラーメン職人にとって平網は野球選手のバットのようなものと例えたが、当然ながら網自体の質にも本物の仕事を要求する。網の強度やしなやかさ、手への馴染みを求めて金網職人に特注し、既製品ではなくオリジナルでしつらえてきた。しかしながら、この平網を作る職人の灯が消えかけている。かつては久留米や佐賀市、北九州にも金網職人がいたが他界、廃業し、いま昔ながらの手作業で平網を作る職人は、この人しか残っていない。

佐賀県鹿島市「原金網店」の原一正さんだ。

「原金網店」の一正さんは40年、平網を作り続けている

正直、この方に出ていただけるのは本当に特別なことだ(感無量)。長きにわたり、九州ラーメン文化を陰で支えてきた功労者である。

昭和35年、鹿島市生まれ。“平網使い”のラーメン店主から絶大な支持を得ている。プロが惚れるプロである。一正さんは、祖父が1948(昭和23)年に開いた「原金網店」の3代目。外柵工事をメインに、網や“ふるい”など料理人の要望にきめ細かく応えた調理器具も作ってきた。現在59歳。高校を卒業してすぐにこの世界に入っているので職人歴は約40年になる。

網の縁の部分を編み込むように締めていく作業を説明する一正さん

「祖父、父、そして私と、当たり前のように平網を作ってきました。昔は平網を使うラーメン店も多く、たくさんの金網店もあったもの。私が10代で見習いにいった佐賀市の金網店でも平網の注文は多くありましたし、ウチも年200本以上作っていた時代もあります。今は20、30本といったところでしょうかね」(一正さん)

一正さんは、テボ網は作らず平網のみにこだわってきた。材質が鉄から錆びにくいステンレスへと変わった以外は、作り方は何も変わっていない。

木製の柄と網の接合部分の強度、ある程度のしなりが大事である

現在、九州で見かける平網のほとんどは原さんの手によるものだが、多くのラーメン職人が、既製品ではなく原さんの仕事を求める理由。それは抜群の“強度”、“しなり”にある。工房をのぞかせてもらうと、ちょうど「南京ラーメン黒門」(後ほど紹介)の平網を制作しているところ。さらに詳しく教えていただいた。

「まず平網は面積が広く、麺が全体に広がるので水気が切りやすいというのがメリット。直径(20cm余り)は店によってもそこまで相違はないですが、網の目の大きさはそれぞれ異なります。目が大きいと水は瞬時に切れますが、麺が細いと端が穴にささってしまうことがある。麺の形状や太さにも関係してくるんです。そして平網は“打ち付けて使う”ということが前提にあるため、柄と網の根本部分の強度、程よい“しなり”が重要。ラーメン職人さんの癖を見極めながら施す“巻き”と“締め”。それが一番神経と力を使うところですね」(一正さん)

平網作りは指の力と根気が不可欠。一正さんの“ぶっとい”職人の手が歴史を物語る

一正さんは「南京ラーメン黒門」の川内店主より注文を受けた際も、現地を訪れ、麺上げを見学。網を打ち付ける箇所や強さ、持ち方なども考慮して製作している。

平網使いも、それ自体を作る職人も稀有な存在になっている現状をどのように思っているのだろうか。

「何より私自身が大のラーメン好きですし、作り手さんに求められているうちは体の続く限り。と思っていますが、正直複雑な気持ちです。というのも、平網の製作はとても手間がかかり、メインの外柵工事と並行して進めるのは時間的にも大変。家族からは道楽といわれていますし(笑)。ラーメン文化として残って欲しいという一方で、応え続けられるかどうかと不安もありますね」(一正さん)

一正さんは現在59歳で、バリバリの現役だが、金網店は自分の代で閉めると決めている。個人的には、この網に美学を見出し、新たに手に取る若手ラーメン職人が増えて欲しいとは思っているが、製作を一正さんが一手に担っている現状では、それも声を大にしてはいえないだろう。ゆくゆく、平網が完全に消えてしまう日がきてしまうのかもしれない。

佐賀鹿島にあるこの作業場で平網作りに向き合っている。現在「南京ラーメン黒門」の平網を製作中

ちなみに私はマイ平網を持参した。自分で平網Tシャツも作るほどの熱狂的な平網ラバーだw

佐賀県・鹿島市「原金網店」の近くにある豚骨ラーメンの老舗「松福」も原さんが作る平網を親子2代で使い続けている。隠れた美味い店はまだまだあるな、と思い知った濃密な一杯

原金網店

住所 : 佐賀県鹿島市高津原4362
電話 : 0954-62-2987

淡麗豚骨、“平網使い”の所作 ――すべてが美しい。北九州「南京ラーメン 黒門」

「南京ラーメン 黒門」のラーメン。透明感の残る豚骨スープ、ネギではなくアサツキ、チャーシューは部位の異なる肉を1枚ずつ、などシンプルな中に、こだわりが詰まりまくっている

風格、気品が漂う店主・川内久門さん。“クモさん”の愛称で親しまれている

“平網使いは所作が美しい”。ラーメンの端正さも含め、そのことをより実感できるのが「南京ラーメン黒門」、北九州を代表する名店である。本連載vol.4のクリア&淡麗豚骨で少しだけ紹介する程度に留めておいたのは、黒門のスープは透明感を求めたものでなく、結果的に半透明になったものであるということと、何より今回の「平網」で紹介したかったからだ。

平網の柄の窪み、握り方にも注目してもらいたい

店主は川内久門さん。麺場で平網を操る川内さんの無駄のない動きには惚れ惚れしてしまう。肩の力が抜けたゆるーい構え。背筋はしゃんと伸びている。武術の達人のような風格、そして気品。シャシャ、カンカン! 先に述べたように、この音が格別なのだ。

川内さんが扱う平網は、グリップにも特徴がある。主に握る柄の先端の部分が凹んでいることが分かるだろう。川内さんはギュと握ることはせず、この凹みに親指と人差し指を“引っ掛けるように”軽く持つ。手や腕に負荷をかけないために編み出したスタイルである。ちなみに「原金網店」の一正さんは、川内さんの網を製作する際、この柄の絶妙な凹みにも応えるべく丁寧に削りを入れていた。網部分だけでなく、木製の柄まで調整してくれるのが一正さんの愛なのだ。

川内久門さんは、1958(昭和33)年、北九州市八幡出身。かつて南小倉にあり唐津へと移転した「一竜軒」、戸畑「龍王」など、現在コアなラーメンファンが“神”と崇める職人の仕事を、幼い頃から食べ手として体感してきた。そして20代前半、特にどハマりして通い詰めたのが「黒木」だ。

「黒木」は昭和30年代にラーメン屋台から始まり路面店へ。看板のないいわゆる“語り草”店である。一度はサラリーマンの道に進んだ川内さんであったが、長くくすぶってきた思いが弾け、黒木へ入門を懇願。足繁く通って厨房を見学させてもらうことから始まり、平網の扱い方も含め少しずつ技を伝授された。

繰り返しになるが「南京ラーメン黒門」(2003年創業)のラーメンは、透明感を追求したものでなく、ただ旨いを追い求め、結果的にこの形になったものだ。

「ラーメン屋台は自宅でおおよそを炊いてきて、現場で水や骨を足して仕上げていたもの。そして急に売れた時も短い時間で追加分を完成させなければならなかった。私が黒木の師匠に会ったのは、もう路面店の時代でしたが学んだ技の根底には、豚骨の旨味をうまく抽出する屋台の知恵が詰まっているのだと思います」(川内店主)

部位はゲンコツ、背骨で頭は使わない。透明感の残る豚骨スープは弱火でコトコトというイメージだが、強火もしっかり用いながら短時間で旨味を抽出する。

淡麗豚骨スープを丼に張る

作り方は「黒木」を踏襲しているが、全く同じラーメンではない。ネギはスープの味を極力邪魔しないよう細かいアサツキへ。塩も変えている。

また、かつてはミックス骨(頭以外の骨が混合したもの)が広く出回っていたが、現在は“ゲンコツ”、“背骨”のみと、細かい指定で骨を仕入れることができるようになった。より、ピュアな豚骨スープ、洗練された一杯になっているのは間違いない。

川内さんの師匠である「黒木」の黒木正憲さんご夫婦の写真が飾られている

メニューはラーメン、大盛りと、おにぎりのみ。シンプルな塩おにぎりもとんでもなく美味い

絶対に食べておかなければならない一杯だ

南京ラーメン 黒門

住所 : 北九州市若松区青葉台南3-1-5
電話 : 093-777-4688
営業時間 : 11:00〜15:00
休み : 月曜、第4火曜
席数 : 14席
駐車場 : 共用100台

今回は、九州の「平網」文化について考察してきた。最後に言っておきたいのは、決して平網だから良い、テボ網が悪いとか言う話ではない。テボ網にも、もちろん長所はあるし、何より比較的扱いやすいテボ網がなければ、作り手の間口が広がらず、ラーメン人気がこれほどの勢いでワールドワイドになることもなかっただろう。

ただ、九州に現存する平網使いの店にハズレはない。作り手の所作と奏でる音の美しさ。私も含めた豚骨ラバーにとって、“平網使い”は特別感のある、愛すべき職人であることは間違いない。

編集後記

ラーメン職人にとっての“平網”はプロ野球選手の“バット”のよう。と本編でも言ってきましたが、柄の長さや網との角度、グリップの削りや握り方、テーピングの巻き方まで職人により個性が出る平網は、まさにそう表現するのが伝わりやすいと思っています。ゆえ、一切の妥協をしないプロの命である道具の製作をプロにお願いするのは当然のこと。仮に、イチローが平網使いのラーメン職人であったなら、麺を受け止める網の部分は極力小さく、柄も細〜く削り、湯上げフォームも流れるようにあの雰囲気だったかもしれないですね。しかしながら、平網文化が確実に消えゆく一途を辿っていることは本当に悲しいことです、、、、

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